映画「世界の中心で、愛をさけぶ」


極上生徒会の終了に関しても触れたいわけですが(お〜い……)とりあえず。



♪ちぐはぐな〜色でいいもん〜落書きしちゃお〜

♪失敗も当たり前だよね〜私達を許してあげなさい〜

♪怒らないでね〜怒らないで〜好きにさせてね〜

♪大人にはわかんない〜素敵〜奇跡〜完璧〜(ハイ!)

♪可愛いなんて〜そんなこと〜言っちゃだめです〜

♪とてつもない笑顔〜


……誰か止めて(をい)最近この歌がエンドレスリピート(馬鹿とかいうな)

……何の曲かは言わない!(マテ)ヒント?えっと、折笠富美子さん歌上手いね(ばれた)



……さて、軽く壊れたところで本題。本日、TBS系列で、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」が、地上波に初登場しまして、未だ見ていない私は、流石に見ておかねば、ということで、録画までして観ることにしました。


(※多少ネタバレ的な話も入ると思うので、嫌な方はスルーでお願いします。)


ちなみに、私は、ドラマの方は毎週欠かさず見ています。原作本も一応持っております。

つまり、ドラマ→原作→映画の順。かなり奇特だと思う(笑)。

そんな私が、映画を見てまず思った事。

……すんません。展開が早すぎてついていけません!!(爆)

無理もない。ドラマでは11時間以上もかけて描かれているものが、2時間強で終わってしまう訳ですからね。

先に言っておくと、私はドラマは大好きです。今は昔ほど観てはいないんですけど、ピーク時、ほぼ前作欠かさず見ていたような主婦のような奴です。

が、インドア派の宿命か、映画館に行く頻度はかなり低い部類に入ります。最後に映画館で見た映画は……ハウルの動く城ですね。

ちなみに、ハウルに関しては、宣伝の風景と音楽を聞いた瞬間、見たい!と思ってしまった珍しい作品でした。

賛否両論ありますが、私個人としては、期待に違わぬ良作であったと思っています。

宮崎駿監督の作品では、となりのトトロであったり、魔女の宅急便あたりが好きなんです。

ハウルを見たいと思ったのは、そういう雰囲気を感じ取ったからです。


せかちゅーに戻りますが、ドラマでは、朔太郎と亜紀、大木龍之介の他に、原作に登場しない坊主であったり本仮屋ユイカの役どころのエピソードが丁寧に描かれています。


この類の作品には、不幸に陥った後(この場合は亜紀が白血病になった後)は勿論ですが、寧ろそこに至るまでの課程が大事であると考えます。

言いかえると、当たり前であった日常が、あたりまえでは無くなるという出来事を際立たせる為には、その「当たり前の日常」を、視聴者に強く印象付ける必要がある、ということです。

ドラマにおいては、尺を長く取れる事を利用して、こう言った点にとても力を入れていたように思うんですね。だから、「こんな幸せが脆く崩れ去ることは解っているが、少しでも長く続いて欲しい」と視聴者に思わせる事がある程度できていた。そして、私も感情移入がしやすかったんですね。

今までできていたことができなくなっていく亜紀を見て、一つ一つ、頭の中でできていた彼女を思い返していくと、なんとも切ない感情がこみ上げてくるという所ですか。

後は、原作より遥かに目立ってしまっている大木龍之介の他、映画では殆ど出番の無い(後述)亜紀の両親の存在が、非常に物語を引き締めているなあ、という印象を受けました。(後、ドラマにしか出てこない教師(松下由樹)も)


桜井幸子の役との兼ね合いがちょっと半端でありましたが、私としては毎週楽しみに見ていたし、感動するところは素直に感動できたドラマでした。


んで、原作の事もちょこっと取り上げつつ映画についてな訳ですが、まず、ドラマと映画とでは、設定、内容がかなり異なります。

映画を真っ先に見て、それからドラマを見た人は、「?」と思ったかもしれません。

しかし、原作に近いのは、映画ではなくドラマの方です。

そもそも、原作には柴崎コウの役は存在しません。

そして、写真館のいわゆる「しげじぃ」ですが、原作では、朔太郎の祖父。ドラマでも同様です。

で、朔太郎の祖父は逝去する訳ですが、しげじぃはピンピンしているんですね。


ここでいきなり原作に言及する(爆)

原作では、オープニングに大きな特徴があると思っています。どういうことかというと、冒頭部分、有名でしょうが、亜紀が亡くなった後、亜紀の両親と共にオーストラリアへ旅立つ、というシーンから始まるんですね。

何が特徴かといえば、いきなり「亜紀が死んだ」と言う事を書いてから、そこに至るまでの経緯を書いているんですよね。

なんていうのかな。さっきも似たようなこと書いているんですが、良くあるパターンとして、

「朔太郎の平凡な毎日→亜紀と出会い、恋をする→恋が実り、二人で愛を育む幸せな日々→突如亜紀が病気に→日に日に弱っていく亜紀→エンド」

みたいな流れがあるわけですよね。ようするに、恋をしたあたりでこそばゆ〜い気持ちになって、幸せな日々で「いつまでもこのままでいて欲しいけど、いつ壊れてしまうんだろう……」と複雑な感情を抱き、病気を患った辺りから「ああ。助からないんだろうな……。解ってはいるけど、助かってハッピーエンドにならないかなあ・……。」なんて読者に思わせる訳です。

ところが、この小説は、いきなり亜紀が死んだ、と断定するところから始まるんですよね。

これは、私が思うに「人を泣かせる為に書かれた小説ではない」からこそではないかと。

事実、私はこの小説読みましたが、世間で言われているように泣きはしなかったです。

じゃあ何よ、というお話ですが、「純愛」の尊さと、「最愛の人の死別」という事がどのようなことなのか、というのが2大テーマで、この話はもちろんフィクションですが、そこには作者なりの哲学があり、それを通じて読者に上記の事を考えて欲しかった、という風に私は解釈しました。

作者の哲学というのは、朔太郎の祖父の会話に強くあらわれているのではないですかね。

後半、愛する人と死別した朔太郎の祖父が、その事について自分の哲学を語るシーンがあるんですよね。


……やべえ、無駄に長い。今日はここまでにしておきます。続きは翌日に。