しにがみのバラッド。第一話を観て
ようやく録画したものを見ましたが、いまいちインパクトにかける感じでした。
物語の感じとしては、一話完結型で、死に関連する何かしらの問題のある人の所に「心優しい」死神のモモが現れる、というもの。
死神にも関わらず、涙を流してみたり、命の尊さを訴えたりと、そんな感じ。
第一話の内容をさらっと振り返ると、一話の主人公は小学生の公太。
幼馴染の麻衣は喘息持ちの病弱。それを気遣っていつも一緒にいた訳ですが、ある日捨て猫を拾った二人は、その猫をこっそり神社で飼い始めます。
最初は面倒に思っていたものの、麻衣の、「公太が(猫の)お父さん、私がお母さんだ」と言う言葉に責任を感じて、懸命に世話をし始める。
その結果、男友達からの誘いを断り続けることになる。ただでさえ麻衣とばかり一緒にいる公太を同級生は快く思っていなかったようで、これがきっかけで、彼らとの仲が疎遠になってしまいます。
しかし、その事を不安に思っていた公太に、久しぶりにサッカーの試合のお誘いが。流石にこれを断ることはできないと思った公太は、猫の世話を麻衣一人に任せることになります。
その日は、「傘のいらない日」という予報であったにも関わらず、大雨が振り出す。
試合から帰宅した公太に、麻衣の母親から、麻衣がまだ帰っていない、という電話が入る。
慌てて傘を持って神社に駆けつけましたが、既に彼女の姿はなく、猫の入ったダンボールには、彼女がここにいた証である彼女のハンカチがかけられていました。
彼女の帰路を辿った彼が見たものは、救急車でした。
喘息持ちで、発作の時には(多分)ベーター刺激剤か何かを、公太の協力を得て吸入していた麻衣。
雨に打たれ著しく体力を低下させた上で発作を起こした彼女には、どうすることもできなかったということでしょうか。
公太は、麻衣の死の責任を猫になすりつけ、「お前が悪いんだ」と雨中の公園に放置しようとします。
そこに現れたのが、死神のモモでした。
「この猫の命を貰うわよ。どうせ、放置しようとしていたんだから良いわよね?」
公太は、一旦容認します。しかし、いざモモが鎌を振りかざした瞬間、「やめてくれ!」と叫びながら、猫をかばったのです。
それを見たモモが
「今のその気持ちを大切にして。その猫をブルーと名づけてあげた麻衣ちゃんの為にも」
このまま放置たら、猫は行き倒れになるだろう。
自分を父親だといい、猫を自分の子供のように可愛がっていた麻衣。
そういった気持ちを無下にしてはいけないと、公太は思い直すことになります。
結構きっちり書いちゃいましたね(汗)。まあいいか。
このような、死に関連した心の迷いや葛藤みたいなものに反応して、モモは現れるということでしょうか。
しかし、「やさしい死神」というアイデアは評価できるものの、いま一つしっくりこないんですよね。
「やさしい」「泣き虫」だけでは、個性として弱いのだろうか。
また、このパターンは形は違えど使い古されたパターンで、「魂に反応する」というパターンも、形は違えど、かつてのとある名作で似たような形式があります。
何かというと、幽遊白書です。
主人公の幽助が、死んでから生き返るまでにしていた行為とどこかダブって感じる。
そういう意味では、新鮮味にかけるということは否めないでしょうね。
とはいえ、「死」というのは生物にとって、永劫に避けようのない、大切な、大切なテーマです。
その事を考える、見つめなおす契機を与える作品になると良いですよね。
様々な角度から描かれるテーマですから、「魂を司る」死神だからこその視点で、切り込んでいって欲しいです。
そういう意味では、死神以外の設定、要するに死神が出るに至るエピソードに多分に左右されることになるでしょうから、一回ごとの出来不出来が激しい可能性もありますね。
そういや、今回の麻衣役は斎藤千和さんがやっていました。
最初声を聞いたとき、一瞬こやまきみこさんかな、とも思ったのですが、少しして、小学生役ということで声を幼くしているだけで、これは斎藤千和さんだな、とピンと来まして。
それを一緒に見ていた弟に話すと、疑いの眼差し。(弟は斎藤千和さん関連では、ぱにぽにのベッキー以外知りません)
エンディングのスタッフロールを見ながら、以下のやりとりがありました。
弟「まじで?(急に巻き戻して)確認してみる」
贔屓にしてる声優さんなんだから早々間違えないってのに。
弟「う〜ん、ベッキーなの??」
そこに、台所に居た母親が登場して一言。
母「え、これベッキーなの?そうは聞こえないねえ」
俺「うん、ぱにぽにの」
…沈黙。
母、呆れ顔で一言。
母「…タレントのベッキーかと思った」
タレントのベッキーではありませんって。ってか、そんなあきれないでください(汗)