隔靴掻痒

新年の挨拶的な形として。

以下ミクシィの転載です。





デーモン閣下ではありません。


…なんて言っても、タイトルが読めない人には意味がわからない。

隔靴掻痒とは、かっかそうようと読みます。漢字で大体察しがつくでしょうが、足がむず「痒」い
んだけど、「靴」が該当箇所を「隔」てていてなかなか思うように「掻」けない。そういうもどかしさを表した四字熟語です。

最近バージョンアップした某スタホにおいても、この言葉が短評として新たに登場しています。
近況が2着3着には来ているのになかなか勝ちきれない、そんなもどかしい馬に出てきます。

今年の私を端的に表す言葉は何かな〜と考えたときに、ふと思いついたのがこの言葉でした。






凄く話は変わりますが。

私は、大学に入るまでは、壁らしい壁や、挫折らしい挫折はありませんでした。
小学校でも中学校でもいじめにあいました。そのせいで、「無視」を筆頭に、トラウマになっている事が多くあります。
人に体を触られると異常な拒否反応を示したりもして、生活に支障があったりも実はします。

しかし、私は昨今の事情を考えると、恵まれていたんだと思います。捨てる神あれば拾う神あり、
と言いますが、どちらの時も、私を助けてくれる人がいました。恩師にも恵まれました。

その恩師のうち前者の方は、私に「やられたらやり返せ」と言いました。
耐えるだけで、歯向かう勇気も力もない私は、客観的に見ていじめの格好の標的でしたが、その師の教えを守った結果、
いじめは劇的に改善しました。

実際、「やられたらやり返せ」という教えは、教育的見地からみたら御法度でしょう。しかし、私にとっては、教師という立場からこのように言われたからこそ踏ん切りがついたのです。
教育って何だろう。
今は、いじめが様々な議論を呼んでいます。何やら教育委員会が勝手知ったるが如く改善案を語っていますが、
根本的に間違っていますよ。

いじめを無くすなんて無理ですよ。人間が人間である限りね。大切なのは、その時に、教師と生徒としてではなく、人間と人間として向き合うことだと思います。
マニュアルなんか何の解決にもなりませんよ。


って思いっきり話がそれたので修正しますが、ともかく、いじめのようなことがあっても、「誰かに助けてもらって」乗り越えてきました。
赤点だって経験が無いし、受験も成功もしていませんが失敗もしなかった。

しかし、大学に入って状況が一変しました。自由を手に入れた代わりに、私は多くの物を失った。知ったのは、挫折という言葉の意味と、自分の無力さだけ。
詳細は書けません(書きたくも無い)が、そうして色々あって一回大学生活が破綻して現在に至っています。
年齢的にしているべき話をしていないのは、こういう足踏みの経緯があったからです。

ですから、私は皆さんのような素敵なキャンパスライフを歩んではいません。今は中途半端な位置でもがいている状態。
これから、失ったものを取り戻すために多くの困難を乗り越えていかなくてはいけません。


昔の私は自分の無力さなんて知らなかった。誰かの助けなんて要らないと思っていた。とんだ勘違いでした。

私の大学生活は、客観的にみれば、私のキャリアの中でれっきとした汚点となる事でしょう。
しかし、おかげで様々な事に気付いた。こうならなければ出来なかった体験もたくさん出来た。
ですから、失敗だらけでも、歩んできた道に後悔はありません。
この目の前に聳え立つ困難という名の大きな壁を乗り越えたら、きっと強くなれる。様々な失敗は人生の糧になる。そう信じています。


来年の抱負なんて、適当な事を書こうと思ってもみましたが、止めにして、ただ一言、皆様にメッセージ。


困難に立ち向かう無力な私に、ほんの一握りで構いません、力を貸してください。
ただ見守ってくれるだけでも構いません。苦しいときに、そっと手を貸してくれるだけで構いません。それだけで、一歩前に進める気がするから。